明治大学に受かったのが、いまからかれこれ約20年前。昨日とことのように感じる…一年間の浪人生活からようやく解放されて、晴れて大学生になった。遅い春だった。高校卒業して、親父の仕事を継いだのはいいが、半ば親のいいなりだった生活に嫌気がさし、自分の足を地につけて歩きたい、立ちたいと思って仙台を飛び出して東京に行った。
金は無かった。底抜けに金が無かった。家賃は月15,000円の三畳一間のボロ屋の間借りの部屋だったな。俺以外は全員外人しか住んでないボロ屋。でも池袋駅西口から徒歩7分で、すぐ裏手には立教大学があった。華やかな女性が多い立教大学。逆に我が明治大学はむっさい男ばかりだった(笑)
学費も何もかも自力で払っていたので、とにかくお金が無かった。バイトは何十何百種類もやった。新聞奨学生から始まって、それを辞めてからは極端に貧乏生活になった。その辺りからなかなか勉強するのもままならなくなった。大学の友達はみな親の資金力があった。でも、うちは親父の会社が倒産し、ボロボロだった。何度周囲と比べて自分を呪ったことか…
牛乳配達、ファミレスの厨房、居酒屋の厨房、ガードマン、塾講師、コンビニ弁当の工場ライン、ドカタの材料運び、怪しい健康器具販売、風俗やキャバクラのスカウト、ホストクラブのホスト、風俗店のボーイ、キャバクラのボーイ、モー娘。の映画のエキストラ、引越屋の荷物運び、模試や資格試験の試験監督、小・中・高校の健康診断のサポート、小論文添削、英語の翻訳などなど…枚挙にいとまがないほどのバイトをした。
親に頼らないで生きる充実感も、しんどさも両方体験した。帰仙したさいに、新幹線にのって来て、長町の街並みを見ただけで、目頭があつくなった。が、3日も仙台にいると、やっぱり東京が恋しくなる。金は無かったけど、楽しかった東京生活。
でも、仙台の人って、なかなか東京に行きたがらなくてねぇ。また、子もそうした親を振り切ってまで東京に出てく気概があり人も少ない。
親父に東京出てく時に言われた。『』